July 26, 2006

亀蔵日誌

 婆が不思議そうな顔をしたとき、後ろから音も無く忍び寄る亀蔵の妻。 奥様、こんな暑い日に遠くからすみませんねえ。何か気配を殺した動きは ちづるをどきりとさせ、やはり伊賀さんの奥さんも『くのいち』なのかしらと、妙に納得させた。 亀蔵の手術は別に秘密にしていたわけではないが、婆には言っていなかった。そっちで女同士話はじめたので、ちづるは亀蔵の顔を覗き込んだ。
 ほら、ここいらへん。なにか白く開いてきたと思いませんか。 右の額から頬を通る 黒い痣はそういえば薄くなってきた気がする。 反対に窓際で日光を浴び続けた左の頬は、夏っぽく日焼けをしていた。
 亀蔵は枕の下から携帯電話を取り出し、もそもそといじりだした。ほらこれが二月前。そして一月前。これが、最近と写真を選びながら見せてくれた。
 ちづるは顔の変化よりも、携帯電話で毎日写真を撮り溜めた亀蔵の執念に驚き、さすが亀蔵と感心した。
 姐さん、九月に入ったらもっと白くなるよ。そうして又、ぱっちんぱっちん拷問な手術を受けるんです。時をおいて、あと3回。
 あれを思い出し恍惚と物語る亀蔵。そろそろ、おいとまと、二人は病室を後にした。


July 25, 2006

亀蔵日誌

 日曜日、竹屋の婆はちづるを供に亀蔵の入院先を訪れた。竹屋の仕事を頼んだときは、四季を問わず亀蔵の昼飯には大抵 鰻重を用意していたので、この日は丁度土用の丑の日に当ったので、見舞いの品は鰻弁当にした。
 桜の樹から落ち、結局腰の骨を折る重症をおった亀蔵の入院は長引いていた。
 婆は鰻重を差し出しながら、亀さん、如何ですかと訊ねると、亀蔵は満面の笑みで、そしていつもの 『くぐもった声』で、ああ、鰻ですか。土用の丑ですね。こいつは暫くお目にかかっていない。ご馳走だ。と、ベッドの脇机に嬉しそうに置いた。 へい、日一日と痛まなくなってきましたよ。で、お庭はどんな風ですか。と残した仕事をずいぶん心配そうに聞いた。
 婆は、あんた そんなこと気にしなくていいから早く治しなさいよ、と言い、ちづるは その後ろで静かに『百合の花』の様に佇んでいた。二人で夏の薄物を着た『小粋な』姿の見舞い客は大部屋の他の入院患者になんだか誇らしく感じた。
 そして小声で 姐(ねえ)さん わしの顔どうですか、と訊ねた。
 

July 17, 2006

亀蔵日誌 ちづるの事件簿のつづき

 昼前に目が覚めた。居間に下りる。良く眠ったとばかりに大きく伸びをしながら庭をみると、ミニトマトが3つ真っ赤に色づいていた。 他の青い実を落とさぬようにそっと摘む。 さっと洗って取りたてを味わいながら、今朝の電話を思い出していた。
 あれから、あの夫婦はどうしているんだろう。 真夏のじりじりした太陽は、厚い雲に覆われ空気は蒸していた。一雨来る。すると一雨より先に、先程の同じ番号から携帯電話が鳴った。
 「阿部の家内です。先程は取り乱して申し訳ありませんでした。」 先の声は、ずいぶん落ち着いていた。いいえ、大丈夫ですよ、と答えながら、どう言ったら相手は興奮しないかと言葉を選ぼうとしたのだが、他所の奥方からこのような苦情が来ることは稀なので本当に困ってしまった。
 「実は、以前にもこんな事がありまして、又かと思ったらついつい主人を問い詰めてしまいました。」 なんと、自宅に女を連れ込み情事の最中に出くわしてしまった、ずいぶん気の毒な過去があったそうだ。
 お気の毒にと答えながら『英雄 色を好む』とは良く言ったもんだと思った。 実際、彼は良く働き稼ぎ非常に精力的な男だから。
 彼女の傍で、愛らしい子供の声がする。
 ちづるは、阿部家の幸せを心から願った。夕立が辺り全てを打ち付けた。

亀蔵日誌 ちづるの事件簿

 深い海に眠れる感じ。心地よく、時間、空気、寝具、周りのもの全てが、疲労困憊した身体を そっと 守るように まったりと 纏わり付く。
 携帯電話着信音6番は、その最も深い眠りを無残に切り裂いた。  8時41分。 ちづるにはまだ十分に深夜帯である。
 液晶画面には、阿部慎太郎様 とある。 一昨夜、執拗な誘いを断った店の客であった。 寝起きの擦れた声で、もしもし、どうしましたか?と言った。
 彼は、直に本題に入った。「ママ、昨日俺はちゃんと一人でホテルに帰って寝たよね。ママは、泊まりになんか来ていないよね。」 あれほど執拗に誘った彼の作戦は失敗に終わっていたので、かえって彼の声は実際強きだった。 「ちゃんと妻に話してくれないか。」
 向こうの声が、女性に変わった。若くて張りのある聡明そうな声が響く。 「主人を問い詰めました。何もないと言うので、それなら そのひと に電話しなさいと言いました。」 ひとしきり それまでの経緯を話してとりあえず気が済んだのか、彼女は「朝早くすみませんでした。」と受話器を置いた音がした。

 ちづるは、なにがなんだか解らぬままに、考えるも面倒で また深い眠りに落ちていった。

July 10, 2006

亀蔵日誌

 あんた、そんなに慌ててどうしたの?と、竹屋の婆。おじさんお昼? ああ、あの人さっき、桜の枝をはらってて落っこっちまってね。ええっ! 腰を打ったようだよ。今さっき帰ったとこ。 ちづるは庭に出てみた。天を突くように伸びた桜の根元には、ばっさり切られた枝が散らばり鋸が投げ出されたままになっていた。亀蔵の落ちたらしい痕跡 地面の穴などはもちろんなかった。

 亀蔵は、本当に気持ちよく仕事をしていた。生い茂った枝の隙間から空が青く嬉しかった。ぎらぎらの太陽もかかって来いと思った。 そうしたら、本当にかかって来られた。木漏れ日が、あのレーザー光線のように彼を射落とした。
 落ちながら、彼は願った。どうか『わしの顔だけは傷つきませんように!』 もともと運動神経の良い男。願いは叶ったが、腰をしたたかに打ちつけた。
 そうして今、彼は病院のベッドの上にいる。枕元には大事そうに『日焼け止めクリーム』が鎮座してあった。つづく

●6月19日、23日、24日、26日、7月4日と書いてきたが、自分でも何を書いたか忘れてしまいそうでいつでもすぐに読めるようメモる。実際に亀蔵の変化が起きるのは9月に入ってのことであろう。乞うご期待。私も期待している。

July 04, 2006

(大病を乗り越えて)亀蔵日誌

 その日ちづるは、仕事の打ち合わせをする竹屋の婆と、亀蔵のくぐもった声で目を覚ました。
 北海道の夏というのに雨続きで鬱陶しかった昨今を払拭する、青空に白雲が美しい眩しすぎる朝だった。
 二人の会話を聞くともなしに、日曜の開放感にまどろみながらもだんだんと覚醒していったのだが。
 やがて、亀蔵の道具を使う音、切られた枝のばっさりと地面に落ちる音、さらには信じられないことに彼の歌さえも聞こえてきたのだった。
 ぱっちんぱっちん 顔を打つ ばっちんばっちん 血がにじむ わしのお顔が腫れていく
 低いこもった発声ながら、なんとも楽しそうに妙な節回しをつけてのリピートは、永遠に続くような気がして、完全に目覚めてしまった。
 もう10時だわ。ちづるは額の汗に張り付いた髪をかきあげながら、シャワーを浴びに階下に下りた。
 シャボンを泡立てて、身体を軽くこすりながら右ひざの傷跡に目が行った。去年晩秋に、アブに刺された傷跡。ウイルス感染してイボ状になったものを液体窒素で焼きとった傷跡だった。時すでに6月。取れたイボのまわりは軽く日焼けしていた。その痕跡は生まれたての桜色の皮膚。
 かめさん、あなた間違っている。そんなふうにしたら大変なことになるわよ。ちづるは、慌ててシャボンを洗い落とし風呂場を出た。