September 21, 2006
亀蔵日誌
なにせ狭い庭、あっという間に桜の根方にいた。幹を撫でさすると感覚でそれだとわかる。桜よ、戻ってきたぞ。お前に落とされた亀蔵じゃ。桜は落とした覚えはない。有頂天になった、亀蔵が勝手に木漏れ日に目をくらませて落ちただけなのだが。
彼は語りかけた。覚えているか。わしは、あれから病院の寝台の上で来る日も来る日も『日焼け止めクリーム』を塗りつけた。3回目の手術はもうすぐぞ。腰がもうすこしましになったら白昼どうどうと、姐さんに見せに来る。長年張り付いていたこいつはレーザー光線に屈服するんじゃ。以前の半分の黒さだ。バッチンバッチンの拷問もあと3度も耐えると、生まれたての皮膚が甦るんじゃ。
実際、レーザー手術を2度受けて、右の頬は大分色が落ちてきている。あの痛さを思い出すと彼はなぜか恍惚とした表情を見せる。痣の深いところに届くように打ち付けるレーザー光線は、太い生ゴムを思い切り引っ張って、それも何十発も連続に打ち付ける感じだそうだ。
もちろん、麻酔術もある。苦痛にゆがみ、恐ろしい唸り声を上げる男を見て医者とて手元が狂ってしまうではないか。暗闇の中、愛おしそうに桜をかかえ、独白した亀蔵の耳に一番鶏の声が聞こえた。桜よ、さらばじゃ。
September 12, 2006
亀蔵日誌
亀蔵は、漆黒の闇に踏み出した。目を瞑っても何歩進めば何処に辿り着くか覚えていた。まず、自分を振り落とした あの桜の樹に訊ねたかった。 足袋を履いた足元は実に静かに、虫の音を途絶えさこともしない。 左手を壁に這わせながら一歩一歩進んでいく。目標まで約15メートルほどか。 体中の神経を集中させ闇を睨んだつもりだが、蜘蛛の巣の真ん中に顔を突っ込んでしまった。亀蔵は、蜘蛛が大嫌いであった。
わしの顔に何をする とばかりに闇雲に両手を振り回したが、なにせ腰は本調子ではない。 バランスをくずした足は、不用意になって、思い切り落とした先に金属の冷たいものを感じた。が、時すでに遅し。
ちづるがしまい忘れた鍬が、刃先を地面から斜め30度程にあげて立てかけてあったのだ。
鍬の柄は、亀蔵の左側頭部を強(シタタ)かに打ち付けた。 目から出た火花で、辺りが見えるかと思うほど激しい痛みを感じた。鍬の存在を知らない亀蔵は、もうパニックである。声にならない声を必死に堪えながら、桜に向かって走った。
亀蔵落ち着け、トラップはまだまだあるぞ。
September 01, 2006
亀蔵日誌 ちづる
まったく日の光の届かない深海に眠れるがごとく、目を覚ましてもどちらが上か下か、いったい何時頃かも判らない、そんな闇の深い夜だった。2階の寝室の窓のカーテンを開けると、庭に置きっぱなしにしたバーベキュー焜炉と七輪の炭の残り火が、赤々と燃えていた。あれは、テレビで見た外国の活火山の溶岩の色みたいだ。全てのものが焼き尽くされ、どろどろと溶ける様を想像して空恐ろしくなった。
日曜日、ちづるは精力的に庭仕事をこなし、ついでに知人を招いてバーベキューパーティをし、調子に乗ってワインを1本空け、片付けも中途半端に床についたのだった。
ああ、今何時かしら。月も無く虫の声だけ。お陽様が上ったら、焜炉と成吉思汗鍋と七輪片付けなきゃ。 そうだ、鍬(クワ)も出しっぱなし。 お母さん、刃を踏んだら頭打ち付けちゃうわ。そういえば、昨日、落とし穴に落ちた子いたし、埋めなくちゃ。
いろいろ明日の仕事の段取りを考えているうちに、真っ暗闇は ちづるを又、深い海の底に引きずり込んだ。